富士吉田地域は、昔から織物業が盛んな地域でした。織物業は、江戸時代からとても盛んだったそうですが、生産のきっかけとなったのは一説によると中国の「徐福」が伝えたからだと言われています。徐福は、紀元前219年、秦の始皇帝の命を受け不老不死の霊薬を求めて3000人の部下と共にこの地に訪れました。その際に、その高い技術力を阿祖谷(現在の富士吉田市大明見)の里人に伝えたと言われています。
郡内織物が広く展開されるようになったのは江戸時代初期からです。郡内地域で生産された絹織物は、「郡内縞(ぐんないじま)」と呼ばれ井原西鶴の作品にも登場するなど、他の生産地の織物と差別化され、高級な絹織物と認識されていました。その後、明治時代からの国の近代化に伴い郡内織物業の生産量は飛躍的に拡大していきました。その背景には副業的な位置づけであった生産形態から、工場制手工業的な形態へとなり、資本主義的な生産形態への変化がありました。しかし、1960年代後半より北陸産地が、日米貿易摩擦の影響を受けて国内向けに転換したことを受けて国内競争が激化し、郡内織物業は厳しい状況となりました。また、現在においては中国、インド等の諸外国と熾烈な争いが続いています。しかし、「品種の多様化」「高い技術力」を武器に今もその価値を高め続けています。
最近では、「インターテキスタイル上海」への出展、「ヤマナシハタオリトラベル」「NO TIE, YOU DIE.」等のイベントを立ち上げるなど積極的な広報活動を行っています。また、JAPANTEXにおいては国際的な有名ブランドマリメッコのテキスタイルデザイナー【鈴木マサル氏】とコラボレーションし、見事成功を収めました。